アウシュヴィッツ第一強制収容所

2009年01月14日(水) 20:52

ヨーロッパ所々方々, ポーランド

ポーランドの南、世界遺産の町クラクフから車で1時間ちょっとのところにある、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ行ってきました。第二次世界大戦時にナチス・ドイツがユダヤ人を絶滅させるべく建設した強制収容所です。ここで150万人もの尊い命が奪われたと言われています。

 

[1] “働けば自由になる”と記された門 [2] 死の壁 [3] ガス室と焼却炉の跡

まず、アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)の見学をしました。
敷地の中へ入ると、収容施設へ通じる門をまずくぐることになります。門には、テレビなどで見たことがある人もいると思いますが、 “ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)”と記されています(写真[1])。この言葉を信じて、強制労働に従事しながら賢明に生きた人たちのことを思うと胸が締め付けられる思いでした。

収容された人たちが暮らした建物はレンガ造りで、それほど粗末な感じではありません。“第一”収容所だからです。第二収容所には、ずっと粗末な木造のバラックが無数にありました。これは後ほどご紹介します。

建物と建物の間には有刺鉄線が張り巡らされていて、自由に行き来することはできないようになっています。 (間違いでした。建物と建物の間に有刺鉄線はありません。SS管理局の建物と囚人用の建物との間にあるだけでした。) 敷地全体は高い塀で囲まれていて、要所要所に監視台もありました。一番端の建物(写真[2]の右側に写っている建物。第11ブロック)には、懲罰用の部屋や独房などがあり、脱走を企てたり、手抜き労働などをした人を処罰するために使われたようです。

写真[2]の中央奥に写っているのは“死の壁”と言われるもので、銃殺刑が執行された場所です。隣の建物(写真[2]の左側に写っている建物。第10ブロック)は囚人の住まいで、死刑執行の様子が見えないように窓には目隠しがされていました。とはいえ、銃声や悲鳴は聞こえたでしょうから、辛かったでしょうね。

写真[3]は、収容所の外れにひっそりと残っているガス室と焼却炉です。ぶっとい煙突がとても印象的でした。ちなみに、後でご紹介する第二強制収容所のガス室と焼却炉は、終戦間際、ナチス・ドイツが破壊してしまったため残っていません。(追記:開放された元囚人たちによって壊された建物もあったようです。)

先に紹介した第11ブロックをはじめ、いくつかの建物が博物館として観光客に開放されています。中の写真撮影は禁じられているためお見せできるものはありませんが、そぎ落とされたユダヤ人の髪の山やその髪で作られた生地、没収された靴の山、メガネの山、鞄の山などがありました。囚人としてここで命を落とした方々の写真も無数に展示されています。中でも私が一番グッときたのは、お鍋の山でした。どこへ、なぜ連れて行かれるのか訳も分からないままに旅支度をしたユダヤ人たちは、どこへ行くにしろ“生活”を続けなければならない、生きていくために食べなければならないと思い、持てる限りの台所用品を持ってくることにしたのだと思います。すぐに没収されるなどとは、微塵も思っていなかった。家や国を追われても、頑張って生きていこうと思っていたことの現れだと思うのです。そう思うと、とても切なくなりました。

先にも書きましたが、第一収容所は第二収容所に比べると桁違いにマシなほうです。私自身、この後、アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウへ行って度肝を抜かれました。次の日記でご紹介します。